遺書についての覚え書き

遺書についての覚え書き

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②と④の遺書について
両者ともに自死の背景に嫁に辛くあたる姑の姿が見える。俗に言う嫁いびりというやつである。
②の書き手は資産家の娘で淡路島の旧家に嫁いでいる。④の書き手も姑は男爵未亡人のようだから実家も嫁ぎ先も結構な家柄なのではないか。少なくとも中流と呼ばれる人々だろう。

(遺書本文はこちら)
と、いうことで中流家庭における嫁いびりの記録を見てみよう

前掲書「明治の結婚 明治の離婚」では、 主に江戸末期から明治二十年代ころまでの水戸と東京における、 中の上クラスの離婚の実態を伝える史料として、社会運動家であり評論家でもあった山川菊栄の母、青山千世の語りを引用している。
孫引きになるが、引用したい。

「妻の病気のための離縁も相当あったことは事実です。
なにぶん離婚の許される場合がハッキリと規定されておらず、漠然と親の気にいらぬ場合にも許されていたので、嫁にこれという欠点がなくとも、家庭を主宰する姑の意見で離婚の行われた例はいくらもありました。

姑が嫁を五人までとりかえた例も千世の近親に二つまでありました。
(中略)
もっとひどいのになると八度まで嫁を取りかえたのがあります。
これも夫は善良で妻にもやさしかったのですが、母親に逆らってまで妻を守る勇気はなく、最初の嫁はきわめて温良な、勤勉な人でしたが、睡眠も食事も十分にとらせず、極端な酷使と虐待とを見兼ねた実家の兄が、すすんで引取ったのでした」

母に逆らえない夫、酷使されても実兄に助けられるまでひたすら耐える嫁の背後に、子は親に、嫁は夫や義父母に従順であるべき、という儒教道徳が透けて見える。
離婚に対する抵抗感があまりなかった農漁村民はまだ、比較的逃げ出しやすかっただろうが、中流以上の家においては、それも難しかったということか。
母に逆らえない夫という点では④の家庭との共通点も見え、大正時代においても古い価値観が残っていたと考えられる。
そもそもデモクラシーが叫ばれたからと言って突然人々の意識が変わるわけではあるまい。
当時の中高年たちの多くが、旧態然とした古い価値観をまだ持っていたとしてもおかしくない。この姑達もおそらくそうだったのではあるまいか。

従って、大正時代においても女性への忍従を説いた儒教道徳が根強く残っていたと考えられる。


「いや、道徳がどんなだろうが、死ぬくらいなら離婚しろよ」と思う人もいるかもしれないがそれはやはり、自由が与えられた現代人の発想なのだ。
明治31年に施行された民法では


夫婦の一方が左の場合に限り離婚の訴えを提起することを得
としていくつか離婚原因を列挙している。
具体的には、以下の内容である。

 
①配偶者が重婚をなしたる時
②妻が姦通をなしたるとき
③夫が姦淫罪によりて刑に処せられたるとき
④配偶者が詐欺や窃盗、横領などの罪によって軽罪以上の刑に処せられ、または他の罪によって重禁錮三年以上の刑に処せられしとき
⑤配偶者から同居に耐えぬ虐待または重大なる侮辱を受けしとき
⑥配偶者より悪意を持って遺棄されしとき
⑦配偶者の直系尊属より虐待または重大なる侮辱を受けたるとき
⑧配偶者が自己の直系尊属に対して虐待をなし又はこれに重大なる侮辱を加えたるとき
⑨配偶者の生死が3年以上分明ならざるとき
(注1)


 協議で離婚できないときは、 列挙された離婚原因にあてはまれば、夫も妻もどちらとも離婚の訴えを起こすことができたわけだ。
ご覧頂ければわかるように、舅姑との不和はその中に含まれていないし、現民法のような「その他婚姻を継続し難い重大な事由」などと言った応用の利く項目はない。
唯一、

 ⑦配偶者の直系尊属より虐待または重大なる侮辱を受けたるとき

は当てはまりそうな感じがするので、再び前掲書「離婚原因の研究」に目を通したが、そもそも⑦に該当する判例としてあげられているのはわずか四、五件であり、他の項目に比べると少ない。その上、嫁と姑のイザコザを要因とした離婚請求は昭和20年に大審院で下された判例の一件のみ。
このケースでは「妻が夫の母と折り合いが悪く、その結果居辛くなったという一事だけではでは配偶者の尊属より、離婚原因としての虐待を受けたとは言い得ない」として離婚は認められなかった。


これを読んだ限りでは彼女たちが、離婚を望んだとしてもそれが認められる可能性はあまり高くは無さそうだ。



  また、当時は女子教育の在り方も女性の自活をほとんど想定せずに家庭内で良き妻、母であることが強調されていたのだ。
中流家庭の娘である彼女たちも女学校でこうした「良妻賢母」教育の洗礼を受けていても不思議ではない。
つまるところ、法律も世間も学校教育も、言い換えれば社会全体が、彼女たちが苦しみから逃れることを許してはいない。
逃げるわけにもいかず、かと言って家にいるのも居続けるのも辛く、耐えられない・・・
そんな状況の中でおそらくこの二人は自死を選択したのではなかろうか。

注1
「一家に一冊必要な人事百般の法律知識」
岩崎高敏著 富文館法律部 1928年
「親族法 法律教科書」牧野菊之助
東京専門学校出版部 1901年
を参考に作成


③の遺書について

この遺書には「家名」という言葉も出てきて、時代を感じさせる。自分は世を捨てて去っていくが、後にのこる周囲の人々へのせめてもの配慮ということだろう。

(遺書本文はこちら)

「愛なき結婚のためー」という文がある。具体的に何があったのかは分からないが、おそらく、書き手は、習慣に従って親の定めた相手と結婚をしたものの、そのために悩み苦しみを抱えついには死を選んだのではなかろうか。
「近代日本の恋愛観」(村上信彦著)は、大正期において情死が流行したことを指摘した上で、その背景をこう分析している。

P128

「かつての父や母のように、愛なくして結婚するには耐えられない。結婚が前提ではなくて愛が前提なのだ。この自由恋愛の願望が家制度とぶつかり、火花をちらす。そして、敗北する。

ただし、家制度に屈従するのではない。それに反逆して二人の愛を引き裂かれまいために共に死ぬのである。」

大正期には、女性解放運動が盛り上がりを見せ、若い男女の出会いの場も増えて、表面上は男女交際が自由化が進んだように見えた。

しかし、結婚となると、親の取り決めに従うことを余儀なくされた若者が多かった。

そうした、理想と現実のギャップが心中流行の背景にあるとしている。

この遺書の書き手は誰かと心中したわけではないにせよ「愛なき結婚」を嘆いている点においては、まさに「近代日本の恋愛観」(村上信彦著)が指摘した時流と一致している。

まあ、一度結婚した女性であるから「愛ある結婚」に憧れた故の自死ではなくひょっとするとここで紹介した他の遺書と同じように夫や義理の両親をはじめとした人間関係の悩みも原因としてあったのかも知れない。

しかし、なんにせよ、制度に屈従しなければならなかった時代の悲劇と言えよう。



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